レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展

福岡市博物館のレオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展を見に行く。

 

             

 福岡市博物館

 

 

 

 

 

 

ルネサンスの巨匠レオナルドダヴィンチの、日本初公開となる《タヴォラ・ドーリア(ドーリア家の板絵)》、すなわち《アンギアーリの戦い》の未完の大作は、今も大きな謎に包まれていますが、そこに描かれた戦闘のモチーフは、未完の壁画が実際どのような作品であったか、当時この作品に影響を受けた画家の その戦闘シーンから創造される作品や模写がたくさん展示されています。部分的に描かれた壁画はその後、半世紀以上のあいだ人々の見るところとなりましたが、現在、フィレンツェ共和国の国会議事堂(現在のヴェッキオ宮殿の大広間にある壁画を制作したのは、ダ・ビンチの信奉者であるジョルジョ・ヴァザーリですが、1560年代、彼はレオナルドの、この未完の壁画を新たな壁画装飾(フレスコ)によって覆ってしまいました。。それでもこのレオナルドの、激烈な戦闘場面を描く絵画表現は、その後に続く芸術家たちに大きな影響を与え続けることとなります。1504年、ダ・ビンチが残した「アンギアーリの戦い」すなわち《タヴォラ・ドーリア》はたんなる歴史画ではなく、まして戦争画でもありません。板絵《タヴォラ・ドーリア》という設計図を作りながら、壁画の制作を途中で投げ出した理由は、いろいろ所説がありますが、学者達の推測では、ヒューマンニズムの原則から戦争を拒否したという学説と技術的な原因説、背景には動乱の時期にあったフィレンツェ共和国が、有能な芸術家を引き止めておく力を維持できなかったことが、あるのではと思れています。《タヴォラ・ドーリア》はポフラ材の上に油絵で描かれているんですが、その後、この未完の作品は1939年加筆され、それが1970年の修復作業で現在の金屏風絵のような印象を与える姿になりました。この作品をたんなる壁画の下絵だけではなく、単体の独立した作品としようとしていたことがうかがえるということです。前面の白い軍馬の尻部分は、左手の指と掌で描かれていて、当時油絵の具が開発されて間もない頃であり粘土が高かったのが原因とのことです。この描写のためにダ・ビンチと思われる指紋や皮脂が《タヴォラ・ドーリア》に多数残っていることが確認されています。結果的に躍動感溢れる馬の動きなど、現場の臨場感を見事に表現しています。ただ実際は、1440年6月にフィレンツェ連合軍(フィレンツェ、ヴェネツィア、それにローマ法王軍)とトスカーナ一帯の覇権を狙うミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティの間で起こったこの「アンギアーリの戦い」は、死者が1人だったとされ、戦傷の行為の結果ではなく、落馬し、馬に踏みつけられて息を引き取った事故死であったのであります。【マキァヴェッリのフィレンツェ史】から、この作品を見て凄惨な戦場を創造しますが、領土紛争の小競り合いに過ぎなかったのです。

 

至上の印象派展

  

           九州国立博物館

 

 

九州国立博物館で至上の印象派展を鑑賞する。    平成30年6月13日

 

 

この展覧会はスイスの実業家、ビュールレが印象派を中心に収集した作品600点の西洋美術のコレクションのなかから、特に知名度が高く選りすった作品64点を展示したものです。皆さんよくご存知の ルノアール、セザンヌ、、ゴッホ、モネ、シスレー、マネ、ドラクロワ、アングルなど、どれも見応えのある傑作が揃っています。印象派のルーツである16~18世紀のヴェネツィア派、17世紀のオランダ絵画から20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスムまで、ブラック、ピカソなどモダン・アートの作品を紹介しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂本繁二郎展