《 アンギアーリの戦い》  

参考文献『ダ・ビンチ封印(タヴォラ・ドーリア)の500年』  著者「秋山敏郎」

2012年11月27日、イタリア政府は、一枚の板絵【タヴォラ・ドーリア】が東京富士美術館から寄贈されたと発表します。

【タヴォラ・ドーリア】(ドーリア家の板絵)という名称は、1960年代後半、レオナルド・ダ・ビンチの学者のカルロ・ベドレッティ博士が名付けた俗称であります。この板絵は「作品は16世紀の模写である」、公式には長い間、「所在不明」とされてきた、いわば幼の名画だと言っていいのですが、近年の議論からレオナルドの新作だと認められつつあるということ、イタリア政府が、今後長期にわたって研究し、その成果を発表していく「プロセス」に入ったということでもあります。ダ・ビンチの作品としての認定という最終目標に向かって一大事業がスタートしたわけです。日本のマスコミでもNHKが2008年に海外制作の番組「セラチーニ博士と失われた壁面」を放映、民法でも日本テレビが2008年「失われたダ・ビンチののフレスコ画発見」放映、番組の冒頭でこのプロジェクトを「成功すればツタンカーメンの発掘以上の大発見」と報じています。

 

レオナルド・ダ・ビンチと言えば、まず思い浮かべるのは ≪モナ・リザ≫ではないでしょうか。それほどこの名画は有名であり疑いようのない事実です。しかしダ・ビンチが世界史、美術史の中で特に重要な地位を占める本当の理由は、この「一つの作品」によるものであるというのが専門家の間では常識になっているそうです。この作品によってバロックから現代に至る500年の美術史の流れの基礎を創ったのです。16世紀後半に発展する二つの様式、すなわちバロック様式と古典様式の先駆となったのであり、もう一人の天才画家・彫刻家のミケランジェロと、(フィレンツェ共和国の国会議事堂の正面の右側面に、ダ・ビンチは 「アンギアーリの戦い」、ミケランジェロは左側面に「カッシナの戦い」の壁画を描くことになります。開始から約8年後、メディチ家により共和国政府は滅ぼされ、フィレンツェが生んだ二人の天才の壁画は未完におわるのです。実際この展覧会には、「カッシナの戦い」の模写も展示されています。二人のライバルの作品を比較するならレオナルドの作品の方が、バロック的要素のおかげで、まとまりという点では優れていると認められるでしょうね。後にこの一枚の絵から深い感銘と衝撃を受けたルーベンスを筆頭に、様々な画家たちに影響を与え続け現代美術に至る系譜がはじまったのです。

 

                         ミケランジェロ 「カッシナの戦い」

                     

                          ルーベンスの模写

 

 

《モナ・リザ》はフランス王家で300年も秘蔵され、一般に公開されたのは19世紀に入ってからでした。200年で世界一の名画になった訳ですが、世界の美術史に与えた影響は皆無といっていいと著者は言っています。《モナ・リザ》よりも、もっと重要で価値ある作品がダ・ビンチにはあったのです。議会制民主主義が崩壊して君主制となったフィレンツェは、国会議事堂を「君主メディチ」のための宮殿に改装します。ダ・ビンチが壁画制作のため準備した作品群は、フィレンツェに残り「戦利品」として、100年間一般に公開されました。これは共和国の戦利の象徴として「メディチ家の支配」を視覚的アピールするのが目的だったようです。この公開されたダ・ビンチの代表作を学ぶために画家達が集まり世界の芸術学校と呼ばれるようになったのです。だがメディチ家のお家騒動を契機に、この作品は秘密裏に売却され、忽然と歴史から姿を消してしまう。以来このダ・ビンチの代表作はどこに行ってしまったのか。現在も学者達を中心に議論が続いています。1970年代から、この消えた代表作を巡る議論を収拾する学説が登場します。「ダ・ビンチの代表作は確実に存在するが
ヴェッキオ宮殿の大広間の壁画の下に隠されている」というもの。

現在のヴェッキオ宮殿の大広間の壁画を制作したのは、ジョルジョ・ヴァザーリですが、天才の傑作を守るためにわざと隠して保護し、その上に自分の作品を描いたのだ。と多くの学者が結論づけ説明しました。民主主義と反メディチ家の象徴であるこの作品が、メディチ家の宮殿にあっては都合が悪いと大多数の学者がこの壁画の隠匿説を支持しました。ところが、ちょうどその頃、一枚の板絵が世の現れたのです。それが《タヴォラ・ドーリア》だったのです。この《タヴォラ・ドーリア》は、実に数奇な運命を辿っているんですが、2012年11月27日この《タヴォラ・ドーリア》が日
本人によってイタリア政府に寄贈されたのです。この寄贈によって「最後にして最大の謎」の答えを追及する新たなプロジェクトが、イタリア政府主導によってはじまったのです。

小説「ダ・ビンチ・コード」と「壁画発見プロジェクト」の相乗効果で、いやおうなしにダ・ビンチの代表「500年の謎」について全世界が注目するようになったのですが、その解決策が日本人よって導かれたということです。